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最高裁判所第一小法廷 平成9年(オ)1937号 判決 1998年1月22日

上告人 中村俊吾

被上告人 国

国指定代理人 高須智佳子

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人堀合辰夫、同中嶋公雄、同岡本理香の上告理由について

原審の適法に確定した事実関係の下においては、本件土地は、地租改正に伴って官有地に編入されたことにより被上告人の所有に帰したものというべきであるから(大審院明治三七年(オ)第七八号同年四月二〇日判決・民録一〇輯四八五頁参照)、これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、所論引用の最高裁昭和四二年(オ)第一二四七号同四四年一二月一八日第一小法廷判決は、事案を異にし本件に適切でない。論旨は、独自の見解に立って原判決を論難するものに帰し、採用することができない。

よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 藤井正雄 小野幹雄 遠藤光男 井嶋一友 大出峻郎)

上告代理人堀合辰夫、同中嶋公雄、同岡本理香の上告理由

原判決には、理由不備ないし判決の結果に影響を及ぼす法令の解釈適用を誤った違法がある。

第一 原判決は、「山林原野についていえば、江戸時代においては、近代的所有権制度の下におけるような抽象的、絶対的かつ包括的な内容をもつ支配権は確立されておらず、山林原野に対し支配関係を有するとしても、その実態は強弱様々であったから、近代的所有権制度の下において、誰を所有者とするかは当然には定まらなかったのであり、したがって、地租改正を進めるに当たって、個々の山林原野の所有権を確定するには、国の公権力の作用として、一定の基準に基づき「民有地」「官有地」を区分する必要があったのである。これが官民有区分であって、そうだとすれば、山林原野の所有権の帰属は、官民有区分によって創設的に決定されたのであり、これに何らかの瑕疵があって、民有地に区分されるべきものが官有地に区分されたとしても、旧訴願法一条一項五号の官民有区分に関する事件として訴願を申し立て、さらに行政裁判所に出訴することなく確定した以上は、その所有権は国有に帰したものと解するのが相当である。」と判示し、大審院明治三七年四月二〇日判決(民録一〇輯四八五頁)を引用したうえで、「該山林原野について民有地とすべき基準を充足する支配関係を有していた者の法的地位が近代的所有権に移行したと解する余地もある」のは、「該山林原野について官民有区分が不存在であるか、または官民有区分に重大明白な瑕疵があって当然無効である」場合のみであると判示する。

しかしながら、右判決は、いわゆる三田用水事件に関する最高裁判決(昭和四四年一二月一八日訟務月報一五巻一二号一四〇一頁)によって変更されたと見るべきである。即ち、いわゆる三田用水事件に関する最高裁判決は、「明治初年の頃、土地について近代的所有権が成立し、官有、民有の区分がなされた際、……土地に対し明らかに具体的支配権を有し」、「官、民有区分の基準に照らせば、……民有地……となったものと認めるのが相当である」場合には、「国有土地森林原野下戻法に基づいて下戻申請をしなかったとの一事により、……土地の所有権を失ったり、右所有権を主張できなくなったりするものではない」と判示している。そうであるならば、本件土地についても、いわゆる三田用水事件に関する最高裁判決に従い、官有、民有区分の基準に照らして上告人の所有となったか否かを判断すべきであり、そのような判断を行わなかった原判決には判例違反の違法がある。

以下、詳述する。

明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「改正地所名称区別」、明治八年二月二七日岩手県布達「官私区別ノタメ私有山林荒蕪地取調ノ件」が、明治政府によって明治初年に実施された地租改正の過程における山林についての官民有区分の一基準であったことは原判決の判示するとおりである。

ところで、右山林の官民有区分の基準については、右明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「改正地所名称区別」では、

「人民各自所有ノ確証アル耕地宅地山林等」と定義するにとどまっていたところ、右明治八年二月二七日岩手県布達「官私区別ノタメ私有山林荒蕪地取調ノ件」では、

「山林買得ノ証書所持致候者ハ買得ノ証書ニ寄リ溯テ元売主ニ相渡リ順々其根元ヲ取調新古ノ証書共可差出事」(第一条)

「前條ノ通溯テ相尋元売主死亡致シ候トモ其子孫連綿相続致候分ハ其申シ傳ヘノ手続詳細取調相認可差出事」(第二条)

「前條ノ通溯テ相尋元売主絶家等ニテ事故判然不致候ハハ其段篤ト取調書面差出事」(第三条)

「他ヨリ買得候訳ニ無之旧来ヨリ持伝来リ別段証書等無之ト雖モ旧来ヨリノ持山ニ相違無之所有無紛其次第村内ノモノハ勿論近村ニテモ存シ候ハハ其者ヲ証人ニ相立連印ノ書面差出事

但本文ノ如キハ別テ戸長注意致シ精々不都合無之様取調可申事」(第四条)

「災害ノ為メ所持ノ証書ヲ失ヒ候共持山ニ相違無之誰々ヨリ何年何月代価何程ニテ買収候次第無紛村内並ニ近村ニテモ存シ居候者有之判然致シ候儀ニ候ハハ其事故前条ノ通取計申出事」(第五条)

「水源山等ニテ一人持或ハ村持ノ分共其顛末ハ勿論水掛リノ村数等詳細取調証書トモ可差出事」(第六条)

「官地工願済ノ上歩合植立候分後末迄官地ニ私木有之候テハ不都合ニ付官納木並地所共追テ払下願出候積ヲ以テ取調植立願済ノ証書可差出事」(第七条)

「官私共試植立願済ノ分ハ兼テ相達置候通ニ分八分歩合ト相心得前条同様取調可申事」(第八条)

「秣場入会等旧来ノ仕来ヲ以テ許可ヲ不得私ニ境界ヲ設ケ刈取来候分ハ悉ク古来ノ証書差出追テ組合村ヨリ拝借願出候儀ト可相心得事」(第九条)

との詳細な規定が設けられ、これを基準として官民有区分の手続が行われた。これも、原判決の判示するとおりである。

右岩手県布達は、第一条ないし第三条において「山林買得ノ証書所持致候者」について、第四条において「他ヨリ買得候訳ニ無之旧来ヨリ持伝来リ別段証書等無」場合について、第五条において「災害ノ為メ所持ノ証書ヲ失ヒ候」場合について、第六条において「水源山等ニテ一人持或ハ村持」の場合について、第七条において「官地工願済ノ上歩合植立候分」について、第八条において「官私共試植立願済ノ分」について、第九条において「秣場入会等」について、それぞれ場合分けをして、規定している。この規定を見る限り、明治政府は、山林原野においても、実態を十分に見極めたうえで、証書・証人によって民有地を認定していったことが明らかである。そこには、原判決が認定しているような「山林原野に対し支配関係を有するとしても、その実態は強弱様々であったから、近代的所有権制度の下において、誰を所有者とするかは当然には定まら」ず、「国の公権力の作用として、一定の基準に基づき『民有地』『官有地』を区分する必要があった」という様子は微塵も窺われない。

官民有区分が、右のように、実態を十分に見極めたうえで、証書・証人によって民有地を認定していくという方法によって行われたということは、いわゆる三田用水事件に関する右最高裁判決が判示することそのものであって、要するに、右判決は、山林原野についても妥当するものである。従って、大審院明治三七年四月二〇日判決(民録一〇輯四八五頁)は、いわゆる三田用水事件に関する最高裁判決(昭和四四年一二月一八日訟務月報一五巻一二号一四〇一頁)によって変更されたと見るべきである。

よって、本件土地においても、先述の明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「改正地所名称区別」明治八年二月二七日岩手県布達「官私区別ノタメ私有山林荒蕪地取調ノ件」を適用して、上告人の所有となったか否かが、まず判断されるべきであり、そのような判断を行わなかった原判決には判例違反の違法がある。

第二 原判決は、本件土地は、民有地についての官民有区分の一基準である明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「改正地所名称区別」明治八年二月二七日岩手県布達「官私区別ノタメ私有山林荒蕪地取調ノ件」を適用して民有地とすべき場合であったとは認められないとしている。しかし、同法令によって山林が民有地と認定されるためには、旧来よりの持山に相違無いことの証人が村内または近村に存すれば良く、本件土地にはそのような証人が存していたことが明らかであった。ところが、原判決は、証人の存否・認定に関する前記岩手県布達の解釈適用を誤ったため、民有地と認定されるべき本件を排除している。従って、原判決には右法令の解釈を誤ったか、あるいは理由不備の違法がある。

以下、詳述する。

右明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「改正地所名称区別」、明治八年二月二七日岩手県布達「官私区別ノタメ私有山林荒蕪地取調ノ件」が、明治政府によって明治初年に実施された地租改正の過程における山林についての官民有区分の一基準であったことは原判決の判示するとおりであり、その基準については、上告理由第一点で指摘した通りであるが、ここに、その第四条を再述すると、左記の通りである。

「他ヨリ買得候訳ニ無之旧来ヨリ持伝来リ別段証書等無之ト雖モ旧来ヨリノ持山ニ相違無之所有無紛其次第村内ノモノハ勿論近村ニテモ存シ候ハハ其者ヲ証人ニ相立連印ノ書面差出事

但本文ノ如キハ別テ戸長注意致シ精々不都合無之様取調可申事」

ところで、<証拠略>の「官私区分御調査願」には、「祖先揚部儀、同郡乙部村四十番地集人ヨリ譲受之儀別紙証書之通相相違之無」と記載された文書に戸長小名省三の奥書がされているほか、伊藤角兵衛作成名義の昭和一五年三月九日付「譲渡証文添書」が添えられ、そこには、伊藤角兵衛の祖先一三代以前集人の代に同人兄揚部を以て磯鶏村白濱を切り開かせたが、「集人持高ノ内高壱石三斗六舛七合及山共譲リ与ヘラレ更ニ白濱揚部ト称シテ分地致シ置カレ候儀祖先ヨリ伝ヘ聞ヘ罷リ有リ候且ツ旧藩時代マテハ又右エ門所有山ト心得松植立其ノ他雑木等勝手ニ進退罷リ有リ候間同人譲受ノ所有山ニ相違無之依ツテ此ノ段申シ上ケ候也」と記載されている。

すなわち、本件土地は、「旧来ヨリノ持山ニ相違無之所有無紛其次第」を、譲渡人の子孫の伊藤角兵衛(乙部村、すなわち近村の証人である)が証人となり、「連印ノ書面差出」しているのである。仮に、先述の岩手県布達第四条の基準のうち、「村内ノモノハ勿論近村ニテモ存シ」という要件を、村内の証人と近村の証人の二人が必要だという意味に解しても、戸長の小名省三(村内の証人である)が奥書を行い、その要件を満たしている。そして、戸長の小名省三の奥書は、「但本文ノ如キハ別テ戸長注意致シ精々不都合無之様取調可申事」という要件も満たしている。要するに、本件土地は、民有地に認定されるべきだったことは明らかである。

しかるに、原判決は、「伊藤角兵衛作成名義の『譲渡証文添書』は、伝聞だから岩手県布達の規定を適用して民有地とすべき場合であったとは認められない」と判示している。

そもそも、岩手県布達第四条の基準というのは、「旧来ヨリノ持山ニ相違無之所有無紛其次第村内ノモノハ勿論近村ニテモ存シ候ハハ其者ヲ証人ニ相立連印ノ書面差出事」というのであるが、「旧来ヨリノ持山ニ相違無……次第……証人」というのは、その「旧来」の謂れを問われるならば、将に、伝聞(=つたえきくこと。人づてに聞くこと。広辞苑。)によって現在それを知っていると言うことであって、そもそも、それは伝聞証人としてしか存在し得ない性質のものである。これが伝聞だから駄目だというならば、第四条が適用される余地は全く無くなる。他方、伊藤角兵衛作成名義の『譲渡証文添書』は、「持山ニ相違無」き点の証人としては、これは、現在の所有に対する極めて有力なる証人そのものであり、それは、伝聞ですらないのである。

従って、「伊藤角兵衛作成名義の『譲渡証文添書』は、伝聞だから岩手県布達の規定を適用して民有地とすべき場合であったとは認められない」と判示している原判決は、岩手県布達第四条の規定の解釈を誤っている。よって、原判決には右法令の解釈を誤ったか、あるいは理由不備の違法があることが明らかであり、破棄を免れない。

以上

【参考】第二審(仙台高裁 昭和六三年(ネ)第一八四号 平成九年六月一八日判決)

主文

本件控訴を棄却する。

当審において追加された請求を棄却する。

当審における訴訟費用は控訴人の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一 控訴の趣旨

1 原判決を取り消す。

2 別紙土地目録記載一の土地から同目録記載二のAないしIの各土地を除いた土地(以下「本件係争地」という。)が控訴人の所有であることを確認する。

3 (当審において追加された請求)

被控訴人は控訴人に対し、本件係争地を引き渡せ。

4 訴訟費用は第一、第二審とも被控訴人の負担とする。

二 控訴の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一 請求原因

1 本件係争地は、原判決添付物件目録(一)及び(二)記載の山林(以下「本件土地」という。)に属し、明治八年ころ行われた地租改正の当時、控訴人の祖先である中村長之助(一三代目中村又右エ門、以下「長之助」という。)が所有していた。

2 すなわち、長之助は白浜揚部の子孫であるが、白浜揚部は、寛永八年未ノ五月二八日、乙部(音部)村集人から本件土地を譲り受け、以後明治初期のころまで、本件土地は、白浜揚部の子孫である中村家当主によって、代々占有、管理、収益されてきたものであり、地租改正当時、長之助が近代的所有権者として認められるべき状態で本件土地を支配していたものである。

3 被控訴人は、本件土地について、地租改正に伴う山林原野官民有区分処分(以下「官民有区分」という)により官林に編入された旨主張するが、本件土地は、明治六年七月二八日公布の地租改正に始まるいわゆる地租改正法令の適用を受けた事実はなく、また、官民有区分により本件土地が官有となったことを証する公の帳簿は存在せず(「陸中國東閉伊郡官林帳」には本件土地が官林となったかのような記載があるが、右は単に「草稿」にすぎない。)、本件土地は、岩手県内の地租改正による官林編入の対象外にあったものである。

4 そもそも、官民有区分は、土地について最も強い支配力を有していた者に対して、その者の所有権を確認した行政作用であって、所有権を創設的に決定したものではない。本件土地が官民有区分の対象地とされていたとするならば、本件土地は、右のとおり中村家当主が代々占有、管理、収益し、これを支配してきたのであるから、当時の当主である長之助の所有として確認されるべきであったのであり、仮に官有地に区分されたとしても、本件土地の所有権には何ら影響がなく、本件土地に関する官民有区分は無効である。

5 また、磯鶏、高濱、月山では、右「陸中國東閉伊郡官林帳」(草稿)記載の面積と「国有森林地籍台帳」記載の実測面積との間に大きな食い違いがあり、これによると、ある土地に対する行政処分が隣接する他の土地に及んでいたこととなり、隣接の他の土地についてなされた別の行政処分は、当初から存在しない土地を対象として行われた可能性があり、このような杜撰な行政処分は、仮に存在したとしても当然に無効である。

6 本件土地が官有区分されたとすれば、それは、長之助が当時私有認定の基準とされていた山林売得の証書を所持していなかったことによるものと考えられるが、その後長之助を承継した中村松太郎(一四代目中村又右エ門、以下「松太郎」という。)は、右譲受けを証する書類を発見したので、明治一四年岩手県番外丙第一九号の布達に基づき、明治一五年七月二〇日、右書類を添えて、本件土地についての官民有区分調査願を当時の県令島惟精に宛て提出したが、右書類を受理した東中北閉伊郡役所が同年一一月三〇日火災により全焼したため、右譲受けを証する書類は焼失した。

松太郎は、その後さらに明治三〇年八月農商務省令第一三号に基づき、明治三一年三月七日、本件土地について「官有山引戻申請書」を提出して民有引戻申請をした。これに対し、国は、明治三二年法律第九九号国有土地森林原野下戻法(以下「下戻法」という。)に基づき、明治三三年六月三〇日ころまでの間に、右申請を認め、同人に対しその旨の通知を発した(ただし、国から発せられた右通知は、同姓同名の磯鶏村の中村松太郎に誤って送達されたようである。)。したがって、本件土地は下戻法に基づく適法な手続の結果、松太郎の所有に帰属したものである。

なお、明治三七年五月二八日、当時の管轄庁である宮古小林区署の建物が火災で焼失し、次いで明治四〇年一月一六日、当時の管轄官庁である青森大林区署の火災により、関係書類の大半を焼失し、また、大正一二年九月の関東大震災により農商務省も関係書類を焼失したことがあったが、これらの事情は本件土地の松太郎に対する引戻許可による所有権の帰属自体には消長を来すものではない。

7 以上のとおり、本件土地は、長之助の所有であって松太郎がこれを相続し、または、松太郎が下戻法に基づきその所有権を取得したものであるところ、同人から中村四郎五郎が、さらに同人から中村貞三がそれぞれ相続により取得し、昭和三九年一一月九日、同人が死亡し、その子である中村智司(一七代目中村又右エ門を襲名)、控訴人及び澤田潤子が共同相続したが、中村智司と澤田潤子は昭和四八年四月七日その共有持分を控訴人に譲渡し、控訴人が単独で本件土地を所有するに至った。

8 被控訴人は、本件係争地が国有林であると主張して控訴人の所有であることを争う。

9 よって、控訴人は、被控訴人に対し、本件係争地が控訴人の所有であることの確認と本件係争地の引渡しを求める。

二 請求原因に対する認否及び主張

1 請求原因1の事実中、本件土地が長之助の所有であったとの事実は否認し、その余は不知。なお、本件係争土地の範囲内には、かつて磯鶏村には全く属したことがないか、または明治八年当時同村に属していなかった土地も含まれている。

2 同2の事実は否認する。

3 同3の事実中、本件土地が地租改正法令の適用を受けたことはないとの事実は否認する。本件土地は、地租改正及びこれに伴う官民有区分により、官林に編入されたものである。すなわち、岩手県における官民有区分は、明治八年六月に着手され、明治一一年一〇月に整頓したのであるが、本件土地を含む月山国有林及び追切国有林は、遅くともそのころまでに官有地と決定され、被控訴人の所有権が確定した。その後、このように官有地と確定した山林は、明治一四年二月二日内務省達乙第六号「官有地ニ確定シタル山林官林ニ編入方」により逐次官林に編入され、本件土地を含む月山国有林及び追切国有林は、明治一五年に官林に編入された。右山林の境界査定は、明治四〇年に行われたが、その際、青森大林区署の国有林野境界査定官吏は、隣接又は介在する各民有地の所有者(その中に控訴人の祖先である中村又右エ門も含まれている。)に境界査定立会通知書を発して現地立会いを求め、その立会いのもとに境界査定がされ、月山国有林及び追切国有林の境界は適法に確定したものである。

4 同4の事実中、控訴人の祖先が本件土地を継続して占有、管理、収益し、これを支配してきたとの事実は否認し、本件土地に関する官民有区分が無効であるとの主張は争う。官民有区分は、所有権を創設的に決定した行政処分であって、官有地に編入された以上、国において該土地の所有権を取得したものと解するのが相当である。

5 同5の主張は争う。

6 同6の事実中、控訴人主張のような庁舎の火災があったことは認めるが、松太郎から引戻申請がされたことは知らない。仮に松太郎から引戻申請がされたとしても、国が申請を認め、同人に対しその旨の通知を発したとの事実は否認する。引戻申請の審査はすでに終了しているはずであり、下戻許可がない以上、すでに官有地とされた森林原野は国有地である。

7 同7の事実中、控訴人及びその祖先が本件土地の所有権を取得したとの事実は否認し、その余は不知。

8 同8の事実は認める。

第三証拠

証拠関係は、原審及び当審記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一 当裁判所も控訴人の本訴請求(当審で追加された請求を含む。)を棄却すべきであると判断するが、その理由は次のとおりである。

二 控訴人は、地租改正が行われた明治八年当時、控訴人の祖先である長之助が本件土地を所有していたと主張する。

そこで、「明治初期における所有権」なるものの意味について考察しておくと、江戸時代においては、一個の土地に対し、領主の支配権と農民の「支配進退」または「所持」と呼ばれる支配権とが重畳的に存在し、農民の支配進退または所持には近代法上の所有権に比しうるような強固なものから利用権ともいうべきもの、さらには単なる事実支配的なものまで強弱さまざまな支配形態が存在していたのであり、明治政府は、地租改正事業を行うに当たり、明治六年三月二五日太政官布告第一一四号「地券発行ニ付キ地所ノ名称区別共更正」、次いで明治七年一一月七日同布告第一二〇号「改正地所名称区別」を発布し<証拠略>、全国の土地を「官有地」と「民有地」に区分する作業を進めたのであり、この過程を経て近代的所有権制度が確立していった。ことに山林原野についていえば、江戸時代においては、近代的所有権制度の下におけるような抽象的、絶対的かつ包括的な内容をもつ支配権は確立されておらず、山林原野に対し支配関係を有するとしても、その実態は強弱様々であったから、近代的所有権制度の下において、誰を所有者とするかは当然には定まらなかったのであり、したがって、地租改正を進めるに当たって、個々の山林原野の所有権を確定するには、国の公権力の作用として、一定の基準に基づき「民有地」「官有地」を区分する必要があったのである。これが官民有区分であって、そうだとすれば、山林原野の所有権の帰属は、官民有区分によって創設的に決定されたのであり、これに何らかの瑕疵があって、民有地に区分されるべきものが官有地に区分されたとしても、旧訴願法(明治二三年法律第一〇五号)一条一項五号の官民有区分に関する事件として訴願を申し立て、さらに行政裁判所に出訴することなく確定した以上は、その所有権は国有に帰したものと解するのが相当である(大審院明治三七年四月二〇日判決・民録一〇輯四八五頁参照)。

もっとも、該山林原野について官民有区分が不存在であるか、または官民有区分に重大明白な瑕疵があって当然無効であるとするならば、該山林原野について民有地とすべき基準を充足する支配関係を有していた者の法的地位が近代的所有権に移行したと解する余地もあるので、以下このような観点に立って検討する。

三 控訴人は、本件土地が地租改正法令の適用を受けた事実はなく、本件土地は、岩手県内の地租改正による官林編入の対象外にあったものである旨主張する。そこで、まずこの点について検討するに、<証拠略>によると、次の事実を認めることができる。

1 岩手県における地租改正に伴う官民有区分は明治八年六月に着手され明治一一年一〇月に終了したが、明治政府は、明治一四年二月二日内務省達乙第六号「官有地ニ確定シタル山林官林ニ編入方」に基づき、官民有区分により官有地に確定した山林を逐次官林に編入させた。すでに、明治九年三月五日内務省決議「官林調査仮条例」により、官林については調査のうえ官林帳を作成すべきものとされていたから、官林に編入された山林は、官林帳に登載する手続がとられたものと考えられる。

2 岩手県が保管し、後に宮古小林区署に保管換えとなった「陸中國東閉伊郡官林帳」(<証拠略>以下「本件官林帳」という。)が右の官林帳であると考えられるが、その四二枚目<証拠略>に第三三号として、「東閉伊郡磯鷄村第十四地割百九番ノ内字白濱、同村第十五地割七十九番ノ内字日蔭」として登載されている山林が本件土地に対応するものであることは、その表示から明らかであり、また、右登載が明治一七年にされたものであることがその記載から見て取れる。その後明治三五年五月二六日農商務省訓令第一三号「国有林野地籍台帳規程」により、大林区署に国有森林台帳を備え置くべきものとされ、これが明治三九年九月同省令第七号「国有林野台帳規程」に引き継がれたが、明治四〇年一月一六日青森大林区署の庁舎が火災により焼失し、台帳類も失われた。その後青森大林区署に備え置かれた国有森林地積台帳のうち「陸中國下閉伊郡官林台帳」<証拠略>は、火災後に本件官林帳を筆写し、同年二月一二日に再製されたものであるが、その中に「下閉伊郡磯鷄村第十四地割百九番ノ内字白濱、同村第十五地割七十九番ノ内字日蔭」の山林が記載されている。現在青森営林局(旧青森大林区署)に備付けの「国有森林地籍台帳」(<証拠略>以下「本件地籍台帳」という。)は、大正二年九月からその使用が開始された台帳であるが、その一七頁目<証拠略>には、「月山国有森林」「岩手県宮古市(旧表示・下閉伊郡磯鷄村)大字高濱字月山一番、同市大字磯鷄字月山一番」と表示された山林の旧地籍字地番として、「大字高濱第十地割字太田濱参拾八番ノ内」及び「大字磯鷄第拾四地割字白濱百九番ノ内、第拾五地割七拾九番ノ内」と記載されているから、本件土地は、被控訴人が月山国有林と称する国有林の一部とされていることが明らかである。なお、本件係争地との関係でいえば、その大部分は月山国有林に存在し、その余の部分(北東の部分)が追切国有林と称する国有林の範囲内に存在している。

3 青森大林区署は、明治四〇年六月、旧国有林野法、同法施行規則(明治三二年八月農商務省令第二五号)及び国有林野境界査定手続(明治三四年五月林発第一八号達)により、月山国有林、追切国有林に隣接または介在する各民有地の所有者に境界査定立会通告書を発して現地立会いを求め、その立会いのもとに、境界を査定し、右境界査定の成果を国有林野境界査定簿に登載して、境界査定図を作成し、これらの原本を青森大林区署に、その副本を宮古小林区署に備え付けたうえ、境界査定通告書を国有林に隣接あるいは介在する各民有地の所有者に送付して査定の結果を通知したが、右隣接民有地の所有者の中には、当時の中村家の当主である中村又右エ門(松太郎)も含まれていた。

4 松太郎の父中村又右エ門(<証拠略>によると、長之助であると考えられる。)は、明治一五年七月二〇日付で当時の岩手県令嶋惟精宛に「官私区分御調査願」<証拠略>を提出したが、その中で、「東閉伊郡磯鷄村十四地割百九番字白濱官山 大凡反別弐百町歩」及び「同郡同村十五地割七十九番字日カケ官山 大凡反別九拾町歩」(すなわち本件土地)について、「明治八年改租ノ際官私区分御調査御達ニ付取調書上可仕節ニ至リ所有之確証詮索仕リ候エドモ証書見出シ兼ネ候ニ付……官山ニ御取据候所……」と記載しており、また松太郎は、明治三一年三月七日付で農商務大臣伊東巳代治宛に「官有山引戻申請書」<証拠略>を提出したが、その中で右土地は「明治八年改租ノ際挙證スルニ暇ナク遂ニ官有ニ誤調セラレタリ」と記載している。これらの記載によれば、長之助及び松太郎は、明治八年から実施された地租改正の手続過程において、本件土地が官有地に区分されたこと自体は承認していたことが明らかである。

以上認定の事実に照らすと、本件土地は、地租改正に伴って実施された官民有区分により、遅くとも明治一一年一〇月までに官有地に区分され、さらに官林に編入されたものと推認するのが相当であり、これが官民有区分の対象地外であったとする控訴人の主張は採用することができない。

なお、控訴人は、本件土地について官民有区分により官有となったことを証する公の帳簿は存在しない旨主張するところ、<証拠略>に照らすと、本件官林帳の表紙<証拠略>には「草稿」と朱書されていることが認められるが、その本文<証拠略>中には、「大正二年九月一日庶発第一〇三号ニテ要存置ニ対スル新台帳交付ニ依リ柵除ス大正二年九月八日宮田印」との記載や「税務署台帳照合済印」との捺印があることに照らすと、宮古小林区署が本件官林帳を正規の官林帳として使用・保管していたものであると認められるから、この点に関する控訴人の主張は採用することができない。

四 控訴人は、本件土地の面積について、本件官林帳の記載と本件地籍台帳の記載との間に大きな食い違いがあり、官民有区分が当初から存在しない土地を対象として行われた可能性があるとして、官民有区分が当然に無効であると主張する。

1 <証拠略>によると、本件地籍台帳に記載された「岩手県宮古市大字高濱字月山一番、同磯鷄字月山一番」山林の実測面積は四九五町七反五畝九歩(大字別の内訳は、<1>大字高濱第一〇地割字太田濱三八番が一三九町九反七畝一歩、<2>大字磯鷄第一四地割字白濱一〇九番及び第一五地割七九番が三五五町七反八畝八歩)、旧簿面積は二九二町六反三畝一五歩とされていること、他方、本件官林帳では、右<1>の山林の段別が凡三八六町六畝歩、<2>の山林の段別が凡八〇六町五反七畝一五歩とされており、この両者の合計が本件地籍台帳記載の旧簿面積であることが認められる。本件土地が右<2>の山林に対応するものであることは前記のとおりであるから、本件土地の面積には、本件地籍台帳記載のそれと本件官林帳記載のそれとの間に大きな食い違いがあることが明らかである。

2 しかし、<証拠略>によると、官林帳の記載は、明治九年三月五日内務省決議「官林調査仮条例」の規定に基づいて行われたものであるところ、同条例一六条には、「山林ノ測量ハ実地ノ形勢ニ寄リ或ハ測器ヲ用ヒ或ハ間縄足踏等ヲ用ヒ適宜斟酌スヘシ尤広大絶険ノ山林ニテ至難ノ場所ハ四至ノ境界並見積反別ヲ記載スルモ妨ナシ」、と規定されていたから、山林原野等の面積については、実測することなく見積反別が記載されたことも多々あったのではないかと推測され、本件官林帳においても、面積の上に「凡」と記載されているところからすると、実測したものではなく、おおよその見積反別が記載されたものであると考えられ、他方、本件地籍台帳の記載が実測面積によったものであることは、<証拠略>から明らかである。官民有区分は、全国の全ての土地を対象として行われたものであり、このような面積の食い違いがあることから、直ちに官民有区分が杜撰なものであったとまではいえないし、ある土地に対する官民有区分が他の土地にまで及び、存在しない土地についてなされたと認めることはできない。

3 したがって、官民有区分が当然に無効であるとする控訴人の右主張も採用することができない。

五 控訴人は、控訴人の祖先である白浜揚部が寛永年間に乙部(音部)村集人から本件土地を譲り受け、以来その子孫である中村家当主が代々これを占有、管理、収益してきたものであり、官民有区分が行われた明治八年当時は、長之助が近代的所有権者と認められるべき状態でこれを支配していたものであるから、仮に本件土地が官民有区分の対象地であったとするならば、長之助の所有とされるべきであったのであり、本件土地に関する官民有区分は無効である旨主張する。

1 <証拠略>そこで検討するに、

(一) <証拠略>は、前記のとおり中村又右衛門(長之助)が岩手県令嶋惟精に宛て提出した「官私区分御調査願」であるが、本件土地について、「祖先揚部儀、同郡乙部村四十番地集人ヨリ譲受之儀別紙証書之通相違之無」とし、「古証文類種々詮索仕候処別紙証文見出候ニ付」、官私区分について格別の詮議を求めるというものであり、戸長小名省三の奥書がされているほか、伊藤角兵衛作成名義の昭和一五年三月九日付「譲渡証文添書」なるものが添えられている。右添書の内容は、伊藤角兵衛の祖先一三代以前集人の代に同人兄揚部を以て磯鷄村白濱を切り開らかせたが、「集人持高ノ内高壱石三斗六舛七合及山共譲リ与ヘラレ更ニ白濱揚部ト称シテ分地致シ置カレ候儀祖先ヨリ伝ヘ聞ヘ罷リ有リ候且ツ旧藩時代マテハ又右エ門所有山ト心得松植立其ノ他雑木等勝手ニ進退罷リ有リ候間同人譲受ノ所有山ニ相違無之依ツテ此ノ段申シ上ケ候也」というものである。

(二) <証拠略>は、松太郎が農商務大臣伊東巳代治に宛て提出した「官有山引戻申請書」と題する文書であるが、本件土地について、「寛永年間ニ於テ音部(乙部)村集人ナル者ヨリ祖先白濱揚部ナル者カ譲受ケタル私山ニシテ旧藩時代ニハ父又右エ門迄数代ノ間……該山ニ関スル総テノ権利ヲ持続シ来リシカ明治八年改租ノ際挙證スルニ暇ナク遂ニ官有ニ誤調セラレタリ其後明治十四年岩手縣番外丙第十九号ヲ以テ所有権ノ確証アルモノハ出願スヘキ旨布達ニ依リ明治十五年七月二十日付ヲ以テ証拠書類ヲ添ヘ官私區分調査願ヲ……東中北閉伊郡役所ニ提出セシニ……該郡衙火災ニ罹リ願書ト共ニ証拠書類ヲ焼失シ為メニ不得止出願ヲ中止スルニ至リシカ明治三十年農商務省令第十三号ヲ以テ民有引戻申請手続ヲ定メラレタルニ付キ……更ニ左ニ挙証致候間前記目的物ヲ私有ニ下戻アランコトヲ請フ」と記載され、証拠として、「送証文写」なるものが添付されている(この写しは、証書の原本を郡衙に提出するに際し写し置いたものであり、証書の原本は郡衙に提出中焼失したと記載されている。)。右添付の「送証文写」は、寛永八年未(ひつじ)五月二八日付の乙部村集人作成名義、白濱揚部宛の文書であって、「……兄白濱揚部殿ヲ其地切開申候事實正ニ御座候、此方ノ持高ノ拾石参斗参舛参合ノ内壱石参斗六舛七合並山共分地仕事相違御座ナク候……右境ノ義ハ東ハ大峯割西ハ稗田島ヨリ引上ケ岸割大峠切北ハ安屋ノ大峯ニ大石有リ峯通引下ケ傘松ヘ引下ケカブリ岩切仕子々孫々ニ至ル迄貴殿御支配可被成候」と記載されている。ほかに、三井包道、山嵜松次郎、岩間京太郎及び上田重温ら作成名義の証明書類が添付されているが、その内容は右送証文写の内容以上のものではない。

(三) <証拠略>は、要するに本件土地が中村家のものであるとの伝聞を供述するにすぎないものである。

2 ところで、<証拠略>によると、前記明治七年太政官布告第一二〇号では、民有地の基準を「人民各自所有ノ確証アル耕地宅地山林等」と定義するにとどまっていたところ、岩手県においては、明治八年二月二七日「官私区別ノタメ私有山林荒蕪地取調ノ件」が布達され、官民有区分の一般的基準が示されたこと、その基準の原則は「山林買得ノ証書所持致候者ハ其買得ノ証書ニ寄リ遡テ元売主ニ相渡リ順々其根元ヲ取調新古ノ証書共可差出事」(第一条)とされたが、「他ヨリ買得候訳ニ無之旧来ヨリ持伝来リ別段証書無之ト雖モ旧来ヨリノ持山ニ相違無之所有無紛其次第村内ノモノハ勿論近村ニテモ存シ候ハハ其者ヲ証人ニ相立連印ノ書面差出事」(第四条)「災害ノ為メ所持ノ証書ヲ失ヒ候共持山ニ相違無之誰々ヨリ何年何月代価何程ニテ買取候次第無紛村内並近村ニテモ存シ居候者有之判然致シ候儀ニ候ハハ其事故前条ノ通取計申出事」(第五条)との規定が設けられており、その後一部修正がされたものの、これを基準として官民有区分の手続が行われたことが認められる。

そこで、右の基準に則して考えるに、前記「送証文写」は、その原本が真実存在し、これが右原本どおりの写しであるとしても、その記載内容は、集人が自己の持高のうち一石三斗余りの山林を兄白濱揚部に分地し同人がこれを支配することを認めるという趣旨のものであって、「集人」なる者の権限自体が不明であるし、<証拠略>によっても、白濱揚部なる者から長之助に至る承継関係が明らかであるとはいえず、これを「山林買得ノ証書」またはこれに準ずる証書とは到底認められない。また、伊藤角兵衛作成名義の前記「譲渡証文添書」にしても、要するに伝聞を記載したものであり、前記三井包道ら作成名義の証明書類及び証人中村リチ及び同中村寿生の証言を合わせても、長之助及びその先代が、本件土地について近代的所有権制度の下における所有権にも比すべき支配関係を有していたとの事実を証する確証としては不十分であり、その他、長之助が明治八年当時、本件土地について近代的所有権制度の下における所有権にも比すべき支配関係を有していたとの事実を認めるに足りる的確な証拠は存在しない。

したがって、右送証文写(またはその原本)及び右に掲げたような書類が当時提出されていたとしても、前記岩手県布達の規定を適用して民有地とすべき場合であったとは認められず、まして<証拠略>によれば、長之助は、「明治八年改租ノ際官私区分御調査御達ニ付取調書上可仕節ニ至リ所有之確証詮索仕リ候エドモ証書見出シ兼ネ候ニ付」と述べていることに照らしても、本件土地にかかる官民有区分に明白な事実誤認があり、これが無効であるとは到底いえない。

3 なお、控訴人は、本件土地内に、中村家の祖先が管理主宰してきた神社や祭神、すなわち、<1>月山神社、<2>不動神社、<3>白山神社、<4>熊野神社、<5>長袖稲荷神社、<6>明神様、<7>金毘羅様、<8>龍神様、<9>山神様の神社や祭神が存在し、本件土地の支配関係を明らかにしてきた旨主張する。

そこで検討するに、本件土地は、その大部分が被控訴人が月山国有林と称する国有林に、その余の部分が同じく追切国有林と称する土地の範囲内に存在していることは前記のとおりであるところ、<証拠略>によると、控訴人主張の神社や祭神が存在し、これらの神社や祭神を中村家が祭ってきたことが窺えるが、広大な山林の中にある神社や祠を祭っていたとしても、それによって直ちに該山林を支配していたとはいえないのみならず、<証拠略>によると、<2>の不動神社は月山国有林内に存在するが、その敷地は昭和三二年一二月以降佐隻建網漁業生産組合に貸与されていること、<6>の明神様は月山国有林内に存在し、昭和三二年一二月から平成元年四月まで中村又右エ門に貸与されていたが、その後民有地に移転していること、その余の神社と祭神はいずれも国有林内には存在しないことが認められるのである。

4 したがって、長之助が、明治八年当時、本件土地について近代的所有権制度の下における所有権にも比すべき支配権を有していたとの事実を前提とする控訴人の主張は採用することができない。

六 控訴人は、本件土地は下戻法に基づく下戻処分の結果、松太郎の所有に帰属した旨主張する。

1 下戻法(明治三二年四月一七日法律第九九号)三条所定の下戻処分は、地租改正によって官有地に編入され現に国有に属する山林等につき、所定の要件を充足する者にその所有権を取得させる行政処分であり、このことは同法一条及び四条の規定に照らしても明らかであるところ、<証拠略>によると、松太郎が明治三一年三月七日付で農商務大臣伊東巳代治宛に「官有山引戻申請書」を提出した(以下右申請書による申請を「本件申請」という。)こと、本件申請は、「官有森林原野ヲ民有ニ引戻ヲ請フモノハ自今左ノ手続ニ拠ル可シ」として定められた明治三〇年八月六日農商務省令第一三号の規定に基づいて行われたものであるが、下戻法の制定に伴い、同法に基づく申請とみなされたものであること(同法七条)が認められる。

2 控訴人は、松太郎に対する下戻処分がされたものの、その通知が磯鷄村の同姓同名の者に送達されたものと主張する。しかし、<証拠略>によると、昭和四四年五月二九日付をもって中村智司(第一七代目中村又右エ門)から提出された嘆願書には、嘆願の趣旨、経過として、引戻内定の通知が宮古市内に居住する同姓同名の中村又右エ門に送達された旨が記載されていたことが認められるが、右引戻内定の通知が送達されたとの事実を裏付ける証拠は存在せず、他にこれを認めるに足りる証拠も存在しない。

もっとも、本件申請に対して却下の処分がされたことを示す文書も存在していないが、<証拠略>によれば、これは、大正一二年の関東大震災で農商務省保管のかかる下戻申請書類その他の下戻処理文書の一切が焼失したためであることが認められ、他方、下戻法に基づいて下戻申請をすることができる期限は明治三三年六月三〇日までとされていたところ(同法一条)、<証拠略>によれば、下戻法に基づく下戻申請件数は二万〇六七五件に及んだが、明治三八年にはすべての処理が終了したことが認められるので、本件申請に対しても、その処理は終了しているものと推認される。

3 したがって、松太郎が下戻処分によって本件土地の所有権を取得したとする控訴人の主張も採用することができない。

七 本件係争地の大部分が月山国有林(本件土地はその一部である。)に存在し、その余の部分(北東の部分)が追切国有林の範囲内に存在していることは、前記のとおりであり、長之助または松太郎が本件土地の所有権を取得したとの控訴人の主張が理由のないものであることは以上に示したとおりである。また、本件係争地のうち、追切国有林の範囲内に存在している部分については、控訴人はその所有権の取得原因を何ら主張立証していない。

八 以上のとおり、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は相当であり、本件控訴は理由がないから、これを棄却すべきであり、控訴人の当審において追加された請求も理由がないから、これを棄却することとする。

よって、当審における訴訟費用の負担について、民事訴訟法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 原健三郎 伊藤紘基 杉山正己)

(別紙及び資料省略)

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